- 明日11/20(日)の文学フリマ東京35にて生物SFアンソロジー『なまものの方舟/方舟のかおぶれ』が頒布されるのを記念して、過去に書いた生物SF「はっちゃん帰路をゆく」を公開します。
- もともとは「見るなのタブー」がテーマの創作アンソロジー『息 -Psyche- vol.4』(2019年刊行)に寄稿したものです。
- 『なまものの方舟』に寄稿した短編とは一切無関係です。設定も文体もテイストも何もかもが異なります。
- 文学フリマ東京35の頒布情報はこちらの記事をご覧ください。
はっちゃん帰路をゆく
むかしむかし、あらゆるところで、あらゆる生きものが死にました。
そのころの生きものたちは現代に比べてはるかに多種多様で、それはそれはみごとな生態系をつくりあげていましたが、動物も、植物も、その他のごく小さな生きものたちも、みんな一瞬で死にました。陸地に立っていたものも、地面に潜っていたものも、水中を漂っていたものも、雲上を飛んでいたものも、みんな一斉に死にました。何をするということもなく、これから産まれるのをじっと待っていたものでさえ、産まれるまえに死にました。この世のすべての生きものが、ひとつの例外もなく死にました。死に絶えました。
ひょっとして、何か、とても大きな爆発が起こったんじゃないか。
ちっちゃなタコのはっちゃんは、あとからそう思いました。はっちゃんというのは、このお話のために便宜上つけた名前です。
あのとき、この世のどこかで巨大な何かがはげしく炸裂したせいで、みんなその爆発に巻き込まれて死んでしまったのではないか……というのがはっちゃんの考えでした。しかし、死んだあとになってからではそれを確かめるすべはありません。八本の腕を四つに組んで思い出そうとしてみても、当時の記憶はおぼろげで、覚えているのはとてつもなく眩しい光、ただそれだけでした。他の生きものたちにも何か覚えていないか訊いてみましたが、みんなはっちゃんと似たり寄ったりで、死んだときのことをはっきり記憶しているものは誰もいませんでした。あまりにも突然のできごとだったので、誰もその瞬間をちゃんと見ていなかったのです。「何が起こったかまるでわからず、いつのまにやら死んでいた」というのが生きものたち全員の思うところでした。
「ホタテガイのじーさんなんか、あんなにたくさん目があるってのに何を見てたんだか」タコのはっちゃんはぼやきます。「まったく、気づいたらみんなそろってあの世にいるってんだから情けないよ」
そうです。はっちゃんたちはあの世にいました。あの世――冥府や冥界、黄泉の国と呼ばれることもありますが、つまりは死後の世界のことです。
古くからあの世に棲むものたちが、ここがあの世であることを教えてくれました。あの世に棲むものたちは、いきなりやってきたはっちゃんたちにたいそう驚いていましたが、それでも親切に、あるいは冷淡に、はっちゃんたちがすでに死んでいることを宣告したのです。とはいえ、はっちゃんたちが死んだ原因については、あの世に棲むものたちにも分からないようでした。あの世にとっても、このようなできごとは初めてでした。
調査が終わり今後の方針が決まるまでその場でじっと待っているように、とあの世に棲むものたちははっちゃんたちに言いました。そんなこと言われなくても、動きようがありませんでしたが。なぜって、この世のありとあらゆる生きものたちが一度にまとめて押しかけてきたせいで、あの世はどこもかしこもぎゅうぎゅうづめになっていたのですから。
そのような混み具合にもかかわらず、あの世に棲むものたちはひらりと姿を消しました。それからずいぶんと時間が経っているような気がします。
「まだかなあ」はっちゃんの横で、ヒトデのごーちゃんがぽつりと言いました。
「うーん、せまいよう」ウニのせんちゃんもちょっぴり苦しそうです。
「不思議なところだねえ」ウミヘビのれいちゃんはあの世に興味津々のようでした。
ごーちゃん、せんちゃん、れいちゃんというのは、このお話のために便宜上つけた名前です。みんな、あの世に来たときにたまたまはっちゃんの近くにいたことがきっかけで知り合ったのですが、あっという間に種族や捕食関係を越えて仲良くなりました。みんな死んでいるので、もはや捕食も何もないというところが幸いしたのでしょう。
「まったく、どれだけ待たされるんだろう……」
「せまいよう、こわいよう、とうちゃんたちはどこにいるんだよう」
はじめのうちはみんなで愉快におしゃべりをして暇をつぶしていたのですが、いつまで経ってもあの世に棲むものたちは現れず、そのうちヒトデのごーちゃんとウニのせんちゃんは泣き言を漏らすようになっていました。彼らだけではなく、あの世の各所で不満の声があがっているようです。遠くのほうからは喧嘩めいた騒ぎも聞こえてきました。
「まあまあ、きっともうすぐ戻ってくるって」
はっちゃんはそう言って、めそめそするふたりを無理やりなだめました。これまでに根拠のない「もうすぐ」を何度繰り返したことでしょうか。
「変だなあ。おもしろいなあ」
ウミヘビのれいちゃんだけは楽しそうです。
「何がおもしろいんだ?」
はっちゃんが訊くと、ここが水の中ではないことだよ、と答えが返ってきました。
「だけど、水の外ともまた違う。なんだかねっとりとしているね」
たしかに、はっちゃんたちがいる場所は水中ではありませんでした。はっちゃんたちの周りは、ねばりけの強い、よどんだ空気のようなもので満たされています。すでに死んでいるせいか息苦しいということもなく、いたって普通に過ごしていられるのでこれまで気にも留めていませんでしたが、言われてみれば変なことです。おもしろいかはさておき。
「ここには海にいたやつらだけじゃなくて、川にいたやつらだっているし、陸や空にいたやつらだっている。みんなごちゃ混ぜになっているんだ。ほら、上を見てごらんよ」
れいちゃんに促されるまま、はっちゃんはなんとか頭を動かして空を見上げました。なかなか身動きのできない地上とは異なり、上のほうはまだいくらか空いているようでした。粘性のある空気の中を、数多くの魚やクラゲがゆっくりと周回するように泳いでいます。
「ちょっと行ってみようぜ」
そう言ったかと思うとれいちゃんは、密集している生きものたちのあいだをするりと抜けて、上のほうへと泳いでいってしまいました。あわててはっちゃんも追いかけます。「まだなのかなあ」「はやくとうちゃんたちに会いたいよう」などと、まだふにゃふにゃ言っているごーちゃんとせんちゃんは置いていくしかありませんでした。
空を泳ぐというのはどうにも不思議な感じがしました。からだにまとわりつくものが違うからでしょうか。それとも見える景色が違うからでしょうか。小さな泡がどこからも浮かび上がってこないことが不思議でした。地面からにょっきりと生えている植物の、あまりにも太くて長いことが不思議でした。そうやってあの世の光景に見蕩れていたせいでしょうか、よくいろいろな生きものにぶつかってしまい、そのたびにごめんなさいを言いました。
はっちゃんとれいちゃんは、魚やクラゲたちのいる高さまでのぼってきて、そこで一休みすることにしました。さらに上では蝶や鳥の群れがぐるぐると飛び回っています。どうやら上に行けば行くほど粘性が低くなっていて、この世の空と同じような居心地になっているようです。一羽のカモメが羽を休めようとして、ねばりけに戸惑いつつも降下し、頭ひとつ抜けていたキリンの首のうしろに留まりました。キリンの首のうしろには先客のカニグモやアマガエルもいました。陸地に上がることの多いれいちゃんがひとつひとつ名前を教えてくれましたが、海から出たことのないはっちゃんにとっては見たことのない動物ばかりでした。
「こうやって一ヶ所に集めてみると実感するけど、動物って、やっぱり大きく二つに分かれるんだなあ。おもしろいなあ」
れいちゃんは感慨深げに言いました。
「二つって?」
「ぼくたちみたいなやつか、あそこのクラゲみたいなやつかってこと」
れいちゃんが言わんとしているのは、つまりはこういうことでした。
動物は、大きく二種類に分けることができます。一つは、タコやウミヘビのような、中心軸を挟んで左右対称の姿をしている動物。カモメやキリンも正面から見れば左右対称です。もう一つは、クラゲのような、中心軸に対して放射状に対称な動物。そういえば、お星さまのかたちをしているヒトデや、四方八方に棘を伸ばしているウニも、放射状に対称ですね。
食べものを求めて決まった方向に効率良く移動するため、動物のほとんどはこの二種類のどちらかのかたちをしていました。脚、ひれ、翼、触手など、中心軸に対して対称的な繰り返し構造を持つことで、容易にバランス良く一方向へ進むことができるのです。もちろん、細菌などのごく小さな生きものや植物はこの限りではありませんし、動物の中にはみずから動かないことを選択した種もいましたが。
左右対称の動物と、放射状に対称の動物。種の数で比べたら、後者の方がすこし多いくらいでした。むかしはクラゲの仲間が水陸問わずたくさんいましたから。
「ほら、あそこにひとり浮かんでいるクラゲはいっぷう変わっていてね、地上ではまるでクモそっくりに地面を這うんだけど、クモよりもたくさんの目が――」
もとからクラゲに並々ならぬ関心を持っていたのでしょうか、れいちゃんは熱心に語ります。
一方、はっちゃんはうわのそらでした。もうクラゲなんて見ていません。れいちゃんの「ぼくたちみたいなやつ」という言葉から、別のことを連想していたのです。
ウニのせんちゃんははぐれてしまった家族との再会を心から願っているようでしたが、はっちゃんにも、どうしてももう一度会いたい相手がいました。それは、天敵のウツボに食べられてしまったお母さんです。今よりもさらにちっちゃかったはっちゃんがウツボに襲われそうになっていたとき、ごつんと勢いよく体当たりしてはっちゃんを突き飛ばし、身代わりになってくれたのです。
ここがあの世だと言うのなら、どこかに必ず死んだお母さんがいるはずです。そう気づいたはっちゃんは、周囲を見回して「自分みたいなやつ」を探しはじめました。前を見て、横を見て、後ろを見て、上を見て、下を見て、それからもう一度前を見ました。ですが、どこもかしこも種々雑多な生き物だらけで、お母さんどころか、同じタコの仲間すら見つけることはかないませんでした。
「かあちゃん……」
🐙
そうこうしているうちに、やっとあの世に棲むものたちが戻ってきました。どこからともなく不意に空中に現れたかと思うと、はっちゃんたちこの世の生きものに向かってこう告げます。
――こちらの手違いで、うっかり現世を崩壊させてしまった。
――さきほど復旧が完了したので、すみやかにお引き取り願う。
なんて言い草だろうか、とはっちゃんは素直に思いました。
しかしそれからは、これまでずっと待たされていたのが嘘みたいに、てきぱきとものごとが進んでいきました。あの世に棲むものたちも、これほどまでに窮屈なあの世はそうとう嫌だったようです。
あの世に棲むものたちの旗振りに従って、はっちゃんたちこの世の生きものはぞろぞろと長い列になって移動します。はっちゃんも、あの世のどこかにいるはずのお母さんの存在に後ろの腕を引かれつつ、れいちゃんと一緒に空をくだりました。母親仕込みの後ろ向き泳法は、素早くまっすぐ泳げますが、進行方向がよく見えないのが難点です。
大きなホタテガイのお爺さんを目印に、なんとかごーちゃん、せんちゃんのいるところまで戻ってこられました。
「あれ、こんなに余裕あったっけ?」
地上に着いたはっちゃんは、ふと違和感を抱きました。いつのまにか、以前ほどぎゅうぎゅうづめではなくなっています。それに、あの太くて長い植物――「木」と呼ぶのだとれいちゃんが教えてくれました――がどこにも見当たりません。いや、他にも姿を消した生きものがちらほらいるような……。
あの世に棲むものたちに訊いてみると、植物やサンゴやイソギンチャクなど自力で移動できない生きものは、すでに復旧したこの世に返送済みとのことでした。返送なんて真似ができるのなら我々も返送してくれと動物側から声が上がりましたが、あの世の資源の都合か、要望は聞き入れられませんでした。今回採用されたこの世への経路も、本来はこのような一斉帰還用途に使うものではないらしく、大量の生きものを一度に通すために狭い道を急拵えでむりくり広げたという話でした。
移動しはじめてから分かったのは、各自の歩幅やそもそもの移動方法による圧倒的な速度の差でした。はっちゃんたちの頭上では鳥や魚がすいすいと進んでいっています。クラゲたちも、からだを伸縮させて優雅に空を泳ぎます。地上では、大きな四足歩行の陸上動物たちがどんどん追い抜いていきます。はっちゃんたちは誤って踏み潰されないようにするだけでたいへんです。すでに死んでいるので、踏み潰されたとしても別にどうってことないのですが、ちょっといやな気分になります。
タコのはっちゃんは、八本ある腕を一生懸命動かして歩いていました。本当は泳いだほうがずっと速いのですが、友達を置き去りにしてひとりだけ抜け駆けするわけにもいきません。あの世に棲むものたちを待っているあいだに空の上をちょっと見に行ったときとは事情が違います。
ウミヘビのれいちゃんもはっちゃんと同じ気持ちだったようで、ヒトデのごーちゃんやウニのせんちゃんと速度を合わせて、すこし前方でゆっくり地面を這ってくれています。ホタテガイのお爺さんはさっさと跳びはねていってしまいました。その意外な俊敏さにみんな驚きました。
「まあ、ウチらのことはそんな気にしなくていいよ。遅かれ早かれ、みんな無事におうちに帰れるみたいだし」
からだの下側にある、管足という触手めいた器官をうねらせながら、ごーちゃんが言いました。
「そうそう。きっととうちゃんたちも同じくらいゆっくりだと思うから、先に行っててもいいよう」
せんちゃんも、白い管足をくねくねと伸ばします。実はヒトデとウニはどちらも棘皮動物という種類で、移動方法も似通っているのです。
「ここまでずっと一緒だったんだから、最後までつきあうよ」
そうはっちゃんは言い返しますが、そこには「この世に帰るぎりぎりまでお母さんを探したい」という別の思惑もありました。ゆっくり歩きながら、盲点のない長方形の瞳で、広い視界を活かして左右をうかがいます。今となっては、ただ母親と再会するだけではなく、そのままこの世に連れ帰りたいという願望まで生まれていました。しかしそんなはっちゃんの思いとは裏腹に、お母さんは見つからないまま、すこしずつ帰路は終わりに近づいていくのでした。
ところが、なんだか周囲の様子が変わってきたなとはっちゃんが感じたころ、急にその声は聞こえてきました。
――これより冥界と現世の境。
――この先は、けして振り返ってはならない。
――振り返って後ろを見れば、二度と現世には戻れない。
それはあの世に棲むものたちの声でした。
「振り返るなだって?」最初に反応したのはヒトデのごーちゃんです。「そんなこと言われても困っちゃうよ。振り返るも何も、ウチってそもそも……うわあああ!」
叫び声とともに、はっちゃんのすぐとなりにいたごーちゃんが消えました。まるで、あの世に棲むものたちが姿を消したときみたいに、ひらりといなくなってしまったのです。
「え、なに、どうしたの」次はウニのせんちゃんでした。「後ろを見たら現世に戻れないって、そんなのもう遅いよう。だってはじめっから……ひっ」
はっちゃんのすぐ後ろにいたせんちゃんの叫び声は途中でかき消えました。何かが起こったのは間違いありません。ですが、はっちゃんは振り返ることができませんでした。ごーちゃんやせんちゃんの身に何があったのか、うすうす分かりはじめていたからです。
「なんだ、いったん何が起こったん」はっちゃんのすぐ前方にいたウミヘビのれいちゃんは、残念ながら振り返ってしまいました。その先にある何かを見てしまいました。
れいちゃんの小さいながらもつぶらな瞳がかっと見開くのも、それから頭から尾の先まで消えてなくなるのも、はっちゃんはすべて目撃しました。そして確信しました。
――あ。
――やっべ。
そう、あの世に棲むものたちの声も聞こえました。
あの世に棲むものたちもようやく気づいたのです。冥界下りをしたものがこの世へと帰る際によく言われる「けして振り返ってはならない」「後ろを見てはならない」という禁忌。あれが禁忌として成立するのは、前後の区別のある動物――すなわち、左右対称の動物だけであるということに。
ヒトデのごーちゃんは、ヒトデなので星形をしており、その放射状に伸びた五本の腕の先端にひとつずつ小さな複眼がついています。つまり、ごーちゃんは五つの方向を同時に見ていることになり、その方向に前後の区別はありません。ですから、振り返らずともすでに振り返っており、後ろを見ようとせずともいつでも後ろを見ていることになってしまうのです。
ウニのせんちゃんは、ウニなのでからだの下側に管足がたくさん生えているのですが、その管足の根本と先端に光をとらえる細胞が密集しています。全身の棘を使って余分な光をさえぎり、残った光を管足で関知することにより、からだ全体をひとつの目として使っているのです。その目に前後の区別はありません。ですから、振り返らずともすでに振り返っており、後ろを見ようとせずともいつでも後ろを見ていることになってしまうのです。
ウミヘビのれいちゃんは、ウミヘビなので左右対称の動物であり前後の区別がありましたが、本当に振り返って後ろを見てしまいました。ごーちゃんやせんちゃんと同じく禁忌を破ってしまい、ひらりと消えていなくなりました。
きっと彼らは、すぐ後ろにいる何かを見てしまい、あの世の棲むものたちの仲間入りをしたのだ。そうタコのはっちゃんは確信していました。おそらく、今はっちゃんたちが歩いている帰路は、本来ならば左右対称の動物のみが通ることになる道だったのでしょう。無理に道を広げてどんな動物も構わず通すようにして、放射状に対称な動物のことなど何も考慮せずにいつもと同じ禁忌を提示したために、このような事態になってしまったのです。
「ぎゃああああ!」
「助けて! 誰かあ!」
「だめだ、後ろを向くんじゃない!」
「どうしてこんな目にあわなきゃいけないんだ……」
すぐそばにいた動物たちが突然消えはじめたので、辺りは大混乱です。なごやかな帰り道は一転、恐慌状態に陥りました。あの世なので当たり前と言ってしまえばそれまでですが、地獄絵図とはまさにこのことでした。
放射状に対称な動物は次から次へと消えていきました。その多くはクラゲの仲間です。海に浮かぶクラゲの仲間も、陸を這い回るクモによく似たクラゲの仲間も、空を飛ぶコウモリによく似たクラゲの仲間も、ほとんどがぐるりと一周囲むように複数の目を持っていたため、片っ端から禁忌を犯したものと見なされました。収斂進化では視覚器の放射対称性は破れませんでした。
左右対称の動物たちも、思わず振り向いてしまったり、焦ってこの世へひた走る他の動物にぶつかってひっくり返ってしまったりと、不可抗力的に禁忌を犯して消えてゆくものたちがたびたび現れました。そして消えました。
もはやあの世に棲むものたちにも制御できない阿鼻叫喚のなか、タコのはっちゃんは地道に帰路を歩んでいました。ですが、他の動物たちとは歩幅が全然違います。本当はさっさと泳いで行きたかったのですが、そういうわけにもいきませんでした。なぜなら、タコは進行方向と逆を向いて泳ぐので、完全に後ろを振り返るかたちになってしまうからです。
「とにかく後ろを向かなければいいんだ……」
ほぼ三六〇度の視野を持つウサギやトンボは、後ろを振り向いているわけではないのでお咎めなしでしたが、視界の端に映る何かに正気を失いかけていました。カニは横歩きでしたが必死に進行方向だけを見ようとしていました。カメレオンは突き出た両目で後ろを見ないようにするため筋肉がつりそうになっていました。ホタテガイのたくさんある目が進行方向側にしかついていないのは幸いでした。モグラは目が退化しているので何がなにやら分かりませんでした。
「ただ、ひたすら前に進めばいい……」
オットセイが大きく背を反らしすぎて後ろを見てしまいました。ダンゴムシが丸まって転がっていきました。トナカイの角がどこかに引っかかって首がぐるんと回ってしまいました。キリンからぶら下がっていたクモの糸が風で翻りました。ハシビロコウは最初にいた場所からすこしも動いていませんでした。
「ごーちゃん、せんちゃん、れいちゃん、ごめんね……、でも……」
コバンザメは全然そんなつもりがなかったのに、くっついていたサメが旋回しはじめました。カメは頭を引っ込めたまま進もうとしましたが、しだいに方向がずれて完全に後ろを向いてしまいました。その甲羅の上に乗っていたサソリが首筋にちくりと毒針を刺しました。クジラが口の中に多くのクラゲを匿いましたがうっかりそのまま飲み込んでしまいました。
「あと、もうちょっと……」
双頭のヘビがどっちが前に進むかで喧嘩をはじめてしまいました。頭が三つあるイヌが一つだけ後ろを向いてしまい、頭が二つあるイヌになりました。頭が八つあるトカゲが以下略でした。ハナアルキが上下反転しながら進んでいるこの方向は前だろうか後ろだろうかと悩みはじめました。ヒトの祖先は落ち着いて一歩一歩足を進めていましたが、この世の入り口に辿り着く直前で、好奇心に負けて後ろを振り返ってしまいました。
「こ、これが……!」
はっちゃんの視線の先には白く大きな光源がありました。はっちゃんを跨いで追い抜いていったゾウが、その光の向こうへと進んでいきました。アブやハヤブサやベニマグロも次々と光に飛び込んでいきます。ついにあの世とこの世の境の終わり、この世への入り口に辿り着いたのです。あとたった数歩で、この世に帰ることができるのです。
ところが、そんなはっちゃんのもとに黒い影が迫っていました。
そう、天敵のウツボです。
あの世ではみんな死んでいるので種族の違いも捕食関係も気にせずにいられましたが、ここまでこの世に近いところに至っては、そうも言っていられません。今やはっちゃんたちは死んでいるとも生きているともつかないものになっていて、種族の違いも、捕食関係も、あの世ではまったく抱かなかった空腹感も復活していました。
ウツボのぼーちゃんは、空の上からはっちゃんの背後へと音もなく忍び寄ります。ぼーちゃんというのはこのお話のために便宜上つけた名前です。はっちゃんはぼーちゃんに気がついていません。白い光に目を奪われています。
このままぼーちゃんの存在に気づかないと、はっちゃんはぼーちゃんに食べられてしまいます。あの世とこの世の境で、死んでいるとも生きているともつかないものが、死んでいるとも生きているともつかないものに食べられるとどうなるのでしょうか。少なくとも、無事にこの世に帰れないことは確かでしょう。
かといって、ぼーちゃんの存在に気がついて振り向いたら最後、はっちゃんは禁忌を犯したことになってしまいます。お友達のようにひらりと消えて、あの世の棲むものたちの仲間入りです。どちらにせよはっちゃんはこの世に帰れなくなってしまうのです。
どちらも行き止まりの岐路でした。
帰路ならぬ岐路でした。
そのような岐路に立たされていることを、はっちゃんはまだ知りません。背後から見下ろすぼーちゃんにとっても知ったことではありません。
内臓の詰まった丸い腹の部分からはっちゃんを丸呑みにしようと、ぼーちゃんが大口をくわっと開けた――そのときです。
「うわっ!」
はっちゃんは叫びました。
いきなり後ろから誰かに突き飛ばされたのです。
吸盤を使ってしっかり地面にはりついていたわけでもないので、はっちゃんはいとも容易く前方に吹っ飛んで、白い光の中に入っていきます。はっちゃんにはいったい何が起こったのかまるで分かりません。ただ、後ろからきた衝撃の余韻が、からだじゅうに響いていました。その余韻に、かすかな懐かしさを覚えていました。
もしかして。そう思ったはっちゃんは、禁忌のことも忘れて振り返ります。
しかしそこはすでに海の中。
振り返った先には誰もおらず、何ごともなかったかのように海草が揺れているだけなのでした。
🐙
こうしてタコのはっちゃんは、無事にこの世に帰りつくことができました。はっちゃんだけでなく、多くの左右対称の動物はあの世から自分たちの棲み家へと帰ってこられました。
一方、放射状に対称な動物たちは、一部のクラゲがなんとか他の動物の体内に隠れて密航したおかげで生き延びましたが、あとはほとんど全滅でした。ウニやヒトデは、実は幼体が左右対称だったのですこし助かりました。
現在、地球上に蔓延る動物たちがどれもこれも左右対称ばかりで、それにくらべて放射状に対称な動物があまりにも少ないのは、つまりはこういうわけだったのです。